映画の感想をダラダラと

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さらばバットマン「ダークナイト ライジング」

ダークナイト ライジング

(C)2012 WARNER BROS.ENTERTAINMENT INC. AND LEGENDARY PICTURES FUNDING, LLC

 伝説が壮絶に終わったか・・・?

ざっくりストーリー解説

デントの死から8年。デント法によってゴッサムに平穏が訪れていた。バットマンが必要がなくなった世界。しかしそこに新たなる脅威が現れる。

バットマンは異常者?

映画序盤。ブルース・ウェインは引きこもりのような生活を送っている。なぜなら平和になったゴッサムバットマンは必要がないからだ。

しかしそこにキャットウーマン、そしてベインが現れる。平和になったはずの世界に現れた新たなる脅威。ブルース・ウェインは生気を取り戻したかのように活動をはじめる。

彼はコウモリの姿をし、夜な夜な犯罪者を殴ることでしか自分を表現できない悲しい人間だからだ。

これは原作、ティム・バートン版のバットマンでも描かれていたことだ。コウモリのコスプレをして戦うなんて正常な人間のすることじゃないのだ。

ジョーカーはバットマンの鏡

しまいには彼が戦い続けることで新たな敵を産んでしまう。それが「ダークナイト」におけるジョーカー。ジョーカーは言う。自分はバットマンがいなければ、チンケな泥棒でしかないと。

顔を白く塗り、凶悪犯罪を犯すジョーカー。しかし金に興味があるようにも殺人がしたいようにも見えない。彼は秩序や欺瞞に徹底的に挑む。

バットマンはジョーカーが殺せない。ジョーカーを殺すことはヒーローとしての自分の存在否定だから。

ジョーカーはバットマンを殺さない。バットマンが死ねば、遊び相手がいなくなるから。

正反対の存在でありながら、どこか似ている二人。敵のはずなのに分かり合えるのはもしかしたら相手だけかもしれない。それがバットマンとジョーカー。

バットマンに対する否定

バットマンの抱える矛盾が見えたのが「ダークナイト」であったのにまず映画冒頭からその否定が始まる。

ゴッサムは平和になっている。

これをやりたいなら「ダークナイト」でジョーカーは死ぬべきだった。引きこもりになったバットマンはジョーカーという半身を失った存在でなければいけないから。

僕がなぜあのラストが許せないのか。それはバットマンブルース・ウェインとしての救いはあり得ないからだ。

もっとわかりやすく言うと人としての幸せを享受出来ないのがバットマンなのだ。それは辛うじてこの映画の最初で描いてるはず・・・だったのに。

映画のラスト。彼はセリーナ・カイルといちゃついた姿を見せて終わる。これはつまりブルース・ウェインの本質は金持ちでプレイボーイというところにあるというクリストファー・ノーランの解釈なのかもしれない。

そもそもキャットウーマンが惹かれたのは仮面を外したブルース・ウェインだったのだろうか。

このラストは「バットマン ビギンズ」と「ダークナイト」で積み上げてきたものの真っ向からの否定でしかない。

最後に

彼を本当に救いたいなら、あそこで爆弾とともに死ぬべきだったのだ。そうすれば彼はゴッサムを守ったという自己満足の中で死んでいったのに。

いや、そもそもあれでゴッサムは救われたのか。

薄っぺらな救済で伝説は幕を閉じる。

ジョーカーが泣いてるぞ、バットマン